「考え」を書くのではありません。「感性」で書くのです。「知性と理性」が「感性」を支えてくれます。と、詩人であり随筆家の若松英輔さん。

1年前に親友から送られた本。実は小説や詩などは34歳の時に読むのをやめました。大学受験をするので、どうせ読むなら理論書を読もうと決めたから。なにごとも極端すぎるワタシ。笑
彼のようなシンプルなのに深くて共感力のある文章を書きたいと思い、若松ゼミに入ったのだが、思いも寄らないアドバイスがあった。
むむ??
考えを書かずして、一体、何をかくというのだ?
論文やビジネス文章ばっかり書いてきた自分としてはさっぱり理解できない。数ヶ月考えてみたけど、やっぱりわからない。
だって、文章というものは、読み手を想像し、理解してもらえるように書くよね?
じゃないと文章としての価値はない、、と思って今まで生きてきた。
実際、バーバラ・ミント先生も野口悠紀雄先生もそういっている。SFCのライティング技術法の高橋先生にはめちゃ御世話になって、こうした先生たちのおかげで電通の広告論文賞も受賞できたし、日経BPやForbes、朝日新聞などのメディアにも掲載してもらえるようになった。

私が文章作成する時のバイブル。学生にも読むようにと指示。
私のバイブルを眺めて気が付いた。
・・書くことは「表現」だ。
その表現方法はざっくり二つに分けられる。
アートかデザインか、だ。
アートは「問い」でデザインは「答え」。
だとすると、感性豊かな若松英輔ワールドはアート(問い)で、ビジネス文章はデザイン(答え)なのだ。
と、ここまで整理してから、若松さんに聞いてみた。
考えたことを書くのはいけないことなんですか?
すると、
「頭」で書くということは、「観念的」だったり「頭だけで考える」ようになるんです、と。
・・
なるほど・・
そうか・・
つまり体と心がひとつになる必要があるってことか。
泳ぎ方の本をいくら読んでも決して泳げやしない。実際に、水にはいり、体を水に浮かべて、手をかき、足をバタつかし、溺れそうになりながらもがいているとそのうち泳げるようになる。まずは、そこなのだ。
「理論」などの「知識」が必要になるのはその後。
「早く泳ぐ」とか「綺麗に泳ぐ」とかの「知識」は、まだ泳げない自分の中には存在しない。それは誰かが作った「答え」なのだ。
まず自分の体(内なるもの)に問いつつ、あれこれやってみる。そうすると何かが「生まれる」。
外からの知識が先にくることもあるが、基本は、まずやってみることだ。
自分の内と自分の外(他人の知識)と行き来することから得られるものが「知性」であり「理性」。そして「知恵」である。
私は、すっかりオトナになっちゃったってことか・・
でも、小学生の時の気持ちに戻ればいいのか・・
子供のような素直な気持ちで書いたとしても、四半世紀もの長い時間、私の人生(経済)を支えてくれた知性と理性は、その文章をも支えてくれる(はず)。
加えて、若松さんは言う。
詩は手紙です。そして、手紙はコトバの花束です、と。
詩は手紙・・
だったら、書いてみたいことがある。そう思って「詩」を書くことにした。ビジネス文章はしばらくお休み。もっと詩を書いたほうがいい、という若松さんのススメで詩を書く。
私は表現者でありたい。音楽を奏でることも、絵を思うように描くこともままならなくても、コトバなら付き合っていくことができる。
という訳で、たまに、そんな投稿が目につくようになると思いますが、泳いだことがない子供がジタバタもがいている、と思って暖かく眺めてくだされば嬉しいです。
Dive into myself.