美しいものを語り合う時、私は愛を感じる。
逆説的だが、美しいと思う気持ちは人それぞれ。その人自身の主観だ。
自分の審美眼は人とは違う。それを大前提として、なぜ、それを美しいと思ったのか、そのことについて他者と分かち合う時に美は越境するのだと思う。
最近まで美しいものを美しいとは言えなかった。自分の審美眼に全く自信が持てなかったからだ。
それがある時から言えるようになった。
絵を習い始めた時だ。その先生は絵の基本であるデッサンには3つのポイントがあると言う。
・重さ
・動き
・手触り
被写体の形を写し取るのではない。目だけで描かないように。そして、影は描かないで、と。
被写体に触れる時は手にとり、そうでない時は頭の中で猛烈にイメージする。この練習をひたすらに行い、生徒同士で何を感じたかを話し合う。
その時に、他者を否定できないものがあることに気がついた。
重さ、動き、手触りは、その人だけの感覚なのだ。
だから、他人のデッサンをみて「いや、重くないでしょ」とか「その手触りは間違っている」とは言えないのである。人の感覚は自分のものとは違う。当たり前のように思うが、実際に経験してみると、心の底からそう思う。人の感覚だけではなく、自分の感覚も人から否定されるものではない。そう思えた時に初めて「これでいいのだ」と思えた。
美がやすやすと共有できる環境は平和であろう。まずは、人から否定されるのを怖がらない。そして、人が感じる美しさに心を向ける。付け加えるなら、美について語れる表現力も欲しい。そうして美を分かち合えた瞬間に心が通じ合い、愛を感じるのではないか、私はそう思う。
※「民藝四十年」を読んでインスパイアーされて書いたエッセイ