私は多分面倒くさい人なのかもしれない。
美味しいモノや美しいモノに出会うと、なぜ、美味しいと感じるのか、なぜ、美しいと感じるのかを考えてしまうからだ。でも、そのおかげで、「美しい」モノの理由がわかったことがあるので、それについて書いてみたい。
幼い時から自然や手仕事がされたものが好きで、仕事も私事もその業界に関わるものが多い。そういった関係で我が家には日本各地の陶磁器があるが、お気に入りの器の一つが佐賀県伊万里にいる馬場さんが作ったものだ。
馬場さんは、地元の土を使い、地元の素材を配合した釉薬を作って、作陶している。毎日「ああ、忙しい忙しい。注文してくれた皆様、お待たせしてごめんなさい、一生懸命に作っているので、待っててくださいね。」と、ニコニコしながらせっせと轆轤を回している。
皿板の上にずらりとならぶ同じ形をした器。同じものを作っていて飽きないのかな、などど思うのだが、どうも飽きないらしい。器は同じ形のようで微妙に違う。釉薬も均一ではなく、指の跡がついていることもある。でも、どのお皿もそれはそれは美しいのだ。
なぜ、美しいのだろう。
もしかしたら白銀比(5:7)で作られてる?と思い、測ったがそうではなかった。もちろん黄金比(5:8)でもない。
数日前、その答えを森の中でみつけた。
林業の仕事中、なぜか年輪に魅了されてしまい、生木を持ち帰ってしまった。年輪をよく見ると、ほぼ同じ間隔で何重もの円がある。だが、目を引いて全体をみるとその間隔は同じではない、結果、歪な円をなしている。

思わずもちかえってしまった杉の生木。ピシっと音がして亀裂が入った。
地形の輪郭、樹木の形態、鳥の群れなどは「フラクタル構造」がある。それは数式化が可能なのだが、同じものは生成されない。その微妙なズレが「1/fゆらぎ」なのだ。電車の振動もそれ。電車で寝てしまう人が多いのはそれが理由だ。
「すべては森から」を書かれた建築家で森林研究をしている落合さんによれば、そのゆらぎは職人の手による手仕事にも見られ、例えば、ベテラン職人が塗った漆喰壁は鏡のようにすべらかでも測定するとわずかな凸凹があり、それは1/fになっているそうだ。一方で素人が塗ったものにはそれがなく、単に下手なだけで見苦しい。
「1/fのゆらぎ」は工業製品には存在しない。毎日、同じ作業をして突き詰めた手仕事から産まれるものなのだ。
なるほど。馬場さんの手は自然を生み出していたんだ。
反復している人だけが産み出せる「心地よさ」。私が幼い時から自然や手仕事に魅了されるのはそこだったのか。私は知らず知らずのうちに、手仕事がされた器やお茶などを通して、家の中にも自然を招き入れていたのかもしれない。
そう思って、ふと顔を上げたら、目の前に森が見えた、ような気がした。

赴任先の埼玉県ときがわ町の杉の木立。山主さんにとっては「杉の畑」。大切に育てられている。
※「民藝四十年」を読んでインスパイアーされて書いたエッセイ
※アイキャッチの写真は馬場さん(文祥窯)のお皿。よく見るとヒビが入っています。馬場さんはこのヒビが愛らしいそうです。